仕事でなぜかゲームをしてた。サバゲーみたいなリアルで行うやつ。自分と母親と妹の3人パーティでデカい敵の討伐を目指す。結局追い詰められて雑魚敵にやられちゃった。母親にめっちゃ庇ってもらった。そのあとなぜか炭鉱みたいなところにいて、受電で悩む新人の相談を受けていた。

「電話対応まじで苦手なんですよ!あの〜契約者の人が〜」
「いや契約者が、ね?」
係長が指摘する。
細かいな〜とは思いつつ、こういう言葉遣いの拙さで舐められるんやろなあと思った。

SNSと孤独

最近SNSの使い方を改めなければいけないなと思い始めてきている。

私が「潮騒」というハンドルネームでTwitterを始めたのがおそらく2019年とかその辺りだと思う。5年も経つのか...。時の流れが早過ぎて恐ろしい。最近歳をとるのが本当に怖い。歳をとって老けるのが怖いというより、若さで許されている部分が徐々に許されなくなるということが本当に恐ろしく感じている。歳をとることについてもどこかで話そう。

 

メンヘラ特有のリセット癖が発動して何度もアカウントを作り替えたが、繋がっていたいと思う人たちはその度にフォローしているので、フォロワーはあまり変わっていないと思う。

リセットしたいと思う理由はいくつかあるけど、一番大きな理由は過去の自分が嫌いということだと思う。衝動性つよつよ故、考えがコロコロ変わり、その度に過去の自分を憎たらしく感じ、リセットするためにアカウントを消しては作り直すのだ。アカウントだけではなく物も同じように捨ててしまうので、もはや何も残ってはいない。日記でも付けてとっておいたらよかったなと今になっては思うのだが、日記なんか黒歴史にしかならないので続くわけがない。実際何度も数ページしか埋まっていないノートを捨てた。

職も転々としていたので、人生のタイムライン上に物差しとなるようなものが何一つ存在していない。例えば大学生であれば一年、二年...と物差しがあるので、いつ何が起きたのかは覚えているものだと思う。物差しがない場合は、記憶の依代がないというか、細々とした記憶が何にも紐づけられないまま、なんとなくそんなこともあったなぁ程度に頭の中に無造作に点在していることになる。

SNSもリセットせず残しておけば、日記がわりになっただろうと思う。SNSには日記という使い方がある。

 

私はリアルでの交友関係がかなり狭いので、むしろSNSの方がリアルになってしまっているかも。「所詮SNSの人間関係だから」っていう言葉も私にとっては、「所詮リアルの人間関係だから」という裏返しの言葉と同じくらい意味のないものに感じたりする。

正直現実で関わるような人たちとそこまで深い関係にならない。現実で出会う人間は、仕事フィルター、地域フィルターなどのフィルターを通して出会うことになるが、それらのフィルターは自分が興味のある人間を篩い分ける機能がないので、あまり深く関わりたいという人たちと出会えない。ただその上でできるだけ楽しもうと思って色々関わってみたりはするものの、なんだかずっと自分自身が仮面を被っているような状態で、まあそれはそれでいいんだけど。

一方SNSは好きな音楽家のフォロワー欄や投稿のいいね欄であったり、それを介して繋がった人たちのそれであったり、趣味フィルターを通して簡単に自分と趣味が近い人たちと出会うことができる。本当にすごいことだと思う。

SNSには趣味が近い人たちと繋がるという使い方がある。

 

SNSには人それぞれいろんな使い方があると思うけど、私は専ら趣味や感覚などが近い人間と出会うために使っている。大体の人間がそうだと思うけど。自分は現実を信用していないので、こっちの世界を信じるようになる。でも、SNSも現実であることには変わらないと信じているが、ただそれでも人間との関係は、そこにとどまる限りヴァーチャルなものになると思う。お互い認識はしていていいねをし合う、たまにリプをし合ったりすることがあっても、現実で目を見て話したりはしない。ツイートは不特定多数の目に触れる可能性があるにも関わらず、匿名性の高さゆえに、現実では開示しないような自らの内面などに深く言及したりすることがある。それを深い関係ではないのにお互いに見ることになる。この時点でかなり異質だと思う。

実際に会ってお互いの実存を認識して目を見て話してようやく現実の関係と言えるのかなと思う。

 

自分は現実の交友関係が狭い。人と関わろうとするとどうしてもSNSになってしまう。それに加えて孤独を感じやすい性分だから余計にSNSに依存してしまっているのだと思う。ツイートするほどでもないことをツイートしたりとか、頻繁にタイムラインを更新したりとか、自分の現実の時間を侵食してしまっている。これが今の一番大きな問題だと感じている。

 

孤独について話そう。

文明の発達のスピードが人間の進化のスピードと比べて早過ぎて私たちは追いつけていないと思う。群れから離れると危険なので、そういうときに寂しいという感情が役に立ったんだと思うけど、今はみんな基本的には一人で生活する社会になっている。結婚して子供を儲けても核家族化していて、群れで共同で子供を育てる社会とはかけ離れている。

今の私たちにこんな孤独感を感じる機能必要ですか?

もういらないと思う。長い年月をかけて人類は今の社会や文明に適応するために孤独感を捨てるのかな。どうだろう。

この必要かどうかもわからない孤独感に狂わされている。とにかく誰かと話していたいし、そうでなくとも私の発言に何かしらの反応が欲しい。

 

人間が認知できる知り合いの数について調べていたら、ダンバー数という概念があるのを知った。定義としては、人間が安定的な社会関係を維持できるとされる人数の認知的な上限とされている。一説によると、ダンバー数は150人程度とのこと。SNSのフォローフォロワーの数って人によってはもっと超えてる場合もある。人間そんないっぱいの人間と付き合えないよ〜。密接な関係となるともっともっと少ないから、多く見積もっても10人くらいなんじゃないかな。私の場合はもっと少ないと思う。

だから、無理に交友関係を広げる必要はない。今ある関係を大事にして、もっと深めていくべきなんだと感じている。

そんなこんなでSNSの使い方を改める必要があるなあと思った。見る回数も減らしてもっと別のことに時間を使いたい。極端人間なのでアカウントを消そうとも考えたが、SNSに利点があるのは紛れもない事実だし、そこはうまく活用しようと考えているので、少なくとも今は消そうとは考えていない。その代わりスマホからログアウトするのもいいかなあと考えている。考えていることの整理にブログは続けるとして、自発的にツイートするのは更新したときだけ。そのときにタイムラインをざっと見るくらい。

これくらいが上手な付き合い方のような気がする。無理かな。無理そう。

どうすればいいんでしょうか。誰かアドバイスください。てか友達になってくれ🤝

2024/4/25

会社を2日連続で休んだ。通常の有給とは別のリフレッシュ休暇が5日分付与されたが、残り日数はすでに1日しかない。ま〜夏には辞めるので問題な〜い。有給は7月に付与されるのでそれまでは辞めない。ボーナスももらって辞める。

 

今までトリンテリックスという抗うつ薬を服用していたが、若干躁転している旨を先週の診察の際に伝えたら、トリンテリックスの代わりにストラテラが処方されることになった。ストラテラを服用して一週間も経っていないが、寝覚めがかなり良い気がする。起き抜けに行動できる感じ。あとはやる気がアップして午前から何かしら目標を立てて行動することができる感じがする。まぁこれはたまたまそういう波が来ていたときに薬が変わっただけの可能性もあるのでなんとも言えない。ちょっと気になったこととしては、若干イライラすることがある。副作用として易刺激性があるとのこと。いつもイライラしてるおじさんいるけど、ああいう人たちもしんどいんだろうなぁと思った。

眠剤はデエビゴの5mgを1か2錠服用することになっていたが、2錠服用するのが定常化していたのでデエビゴの10mgが処方されることになった。ストラテラとの組み合わせが悪いのか、それとも単体でデエビゴあるいはストラテラの副作用なのかわからないが、寝るときに呼吸困難の症状が何回か出てきた。以前はそんなことなかったような気がする。全身の力が抜けて呼吸さえ忘れてしまう感じ。めちゃくちゃ眠くて落ちる度に呼吸が止まって起きる。この繰り返し。試しにストラテラを日中服用することにしたらおさまった。

ADHDの症状で困っていることは正直あまりなくて、あるとしたら衝動性くらい。でもこれが躁状態に起因しているのか、ADHDの衝動性なのかが判別つかない...。注意欠如に関してはそこまで気になることはない。あるけど通常の範疇を超えていないと思う。マルチタスクが苦手だけど、これも正直仕事や生活面で特に困ったことはない。あとは感覚過敏とかかな。感覚過敏に関しては服薬で何か変わったりするんだろうか。自分の感覚とか感情に変化があるか注意深く観察しようと思う。

 

転職先は現状証券会社のコールセンターを考えている。現職が架電業務が多く、それなりに電話対応が苦ではないのでいいかなぁと思った。あと時給がいい。証券外務員1種を条件にしているところが多いので、来週試験の予約をした。一週間で受かるかな〜。

試験といえば、中小企業診断士。今年受けるんだけど、今年に入ってから鬱がひどくて全く手をつけられていなかったので、当初の予定を変更して科目合格を目指すことにした。7科目中4科目ほど受かればいいかな〜。

 

男女間の友情について考えていたのだけど、細かいところまで考えるとかなり難しい。今は恋と愛について考えている。恋と愛についての言説って、結局は当人の言葉の使い方を表明しているだけなんじゃないかと思う。こういうものは恋と呼んで、こういうものは愛と呼ぶことにしている、ということ以上に何か言っているものをあまり見たことがない。あと、恋が愛に比べて低俗なものであるというのを前提にしていたり、恋と愛を完璧に切り離して考えているものが多い気がする。そんなことないと思う。そんなことない部分を話したい。両者の間はグラデーションがあり、段階的なものであることと、どちらかが高尚でどちらかが低俗なものではないということを話したい。

一人で考えていても考えがまとまる気配がない。誰かと話したいなあ。

2024/4/18

人との対話って大事だなって思った。それはもちろん自分の発言に対するフィードバックがあるからというのもあるけど、頭の中で考えていることを文章という相手に伝わる形に変換する途中で考えが整理されるということもある。人間は言葉がなければ思考できないと思うけど、頭の中では言語的な思考と非言語的な思考が混ざってるんだなと思う。自分一人で頭の中だけで考えていても、思考のうち非言語的な部分が整理されていないのに気づかない。こうやって文章化したり対話することでその部分が整理されるし、整理された結果新しい考えが浮かんだり、考えの矛盾に気づいたりもする。

 


普段考えていること、文章に起こそうとしても案外どう表現すればよいのか分からなかったりする。あんまり突き詰めて考えられてないんだなぁと痛感する。文章を書くということは、思考を整理するための重要な営みだと最近気づきました。Twitterとか文字制限があるものに慣れているので、普段こんな長文書かない。思考も短文に囚われてしまっているのかもしれない。何か思いついてもツイートしてそれで満足しますからね。よくないな。

自分が考えていることはまぁまぁ面白い自負がありますが、こうやって文章にしようと思うともっと思考する余地があるなと思う。頭が働いているときに気が向いたらいろいろ投稿します。

 


そういえば、最近短歌をつくることを始めたのですが、なかなか楽しいです。頭の中にあるイメージを言葉にしようとするとなかなか難しいし、言葉にすると思い浮かべているイメージがギュッと収斂してしまう。でも、言葉には色んな意味があったり、日常会話で使わないような言葉と言葉の連結も全然ありなので、それによって意図してない効果やイメージが生まれたりする。なかなか頭にあることを表現するのは難しいけど、頭にないことが表現として偶然に生まれたりするのは楽しい。単純に歌詞の破片にもなり得るし、続けてみようと思います。

 


最近は自他境界、男女の友情、一人称などについて考えています。考えがまとまったら投稿します。ちなみに、自分の意見を述べるよりも他人の意見を聞きたい節があるので、良かったらDMとかなんでもいいので送りつけて欲しいです。

芸術とか切なさとか

退廃的なものに対して魅力を感じるのはなぜなのだろう。死とか、永遠とか、そういうものを感じ取れるものに魅力を感じる。醜いものと美しいものは一見相反するものに思えるけど、そうではなくて、日常生活においては忌避すべきものが芸術においては美しいものとして感知されるものになることがある。五感のうち視覚と聴覚ではそれが顕著に現れると感じていて、逆に味覚、嗅覚、触覚はそういうことはほぼないと思う。

視覚と聴覚は離れている対象に対して感じることができる器官だけど、それ以外は直接に対象に触れたり近づいたりして初めて感じることができるものだから、忌避すべきものを感じた時にはすでにかなり近づいていて危険性が高いのだと思う。だから聴覚や視覚による忌避すべきものに触れた感覚と比べてどぎつい感覚なんだと思う。ただ、シュールストレミングとか、タイヤの形したゴムみたいな味のグミ流行ったけど、そういうのを面白がる感覚があるよね。まぁ芸術として楽しんでいる感じではまずない。芸術として楽しむってどういうことなんだろう。

映画とか小説で悲しくなったりしんどくなったりするけど、あれは本当の悲しさやしんどさではないと思っている。本当に悲しい出来事はできるだけ出会いたくないし、見たくない。だけど、物語に関しては個人的にはしんどくなるために観たり読んだりしてる節がある。でも友人の辛い話を同じような感覚で聞いたりすることは決してない。みんなそれぞれ言葉の捉える範囲が異なると齟齬が生じると思うので、一旦フィクションで感じる悲しい感覚を「切なさ」、現実の出来事で感じるそれを単に「悲しさ」という言葉を使おうと思う。

切ないって何?

 


しんどいときに逆にしんどいものに触れたくなるときってある。例えば失恋したときに失恋ソングを聴くみたいな。この理由としては一つ、悲しい気持ちをどこか他人事として捉えることができるからなのかなと思っている。悲しさに酔うっていうか。悲しさを切なさに変換する作業なのだと思う。それでも悲しいことには変わりないけどいくらかは紛れる。切なさと悲しさの違いの一つは酔えるかどうかということになると思う。

 


フィクションは酔える。現実の出来事は不謹慎だから酔えないのかもしれない。だけどたまに現実の出来事をフィクションと同じように消費していることがある。不謹慎だけどエモいな〜みたいな。現実のことだったとしても歴史的な事実とか、時間的な距離があるものはフィクションと同じように感じることってあると思う。フィクションかどうかってよりは、自分との精神的な、時間的な距離が問題なのかもしれない。

近いとダメ。遠いとOK。これは感覚器官の話にも通じるかもしれないですね。

 


あんま本筋とは関係ないけど、自分は理性でわかるような芸術にあんまり興味ない。そもそもわかるってなんなんだよ〜って思っている。良いものに触れたときにえも言われぬ感覚ってわかるとかそういうものではないと思う。月並みな表現しかできないけど、衝撃を受けるっていうかなんなんだこれは…っていう感覚になる。わかる芸術ってそういうのではないなあ。ただたまに理性的に良さがわかるときもあるんだけど、それはやがて自分の感覚を拡張して、次同じような要素を持ったものに触れたときに、わからずとも良いと感じることができるようになっている。わかるというのは感覚を拡張する作業だと思う。スルメ曲とかっていうけど、あれは複雑だったりして一聴して良いと気付かなかったものを何度も聴くことによってフレーズや和音の進行を覚えて良いと感じるようになっていくのだと思う。これは単体でその曲だけに感覚が拡張されたのではなくて、次同じようなものに触れたときに良いなぁって思えるように感覚が進化していると思う。

 


音楽を聴いていて胸が締め付けられる感覚が一番好きなんだけど、これは恋愛の痛みとか、そういうのに近いと思う。悲しいけどこの感じが気持ちいいみたいな。不思議だ。大体この感覚を覚えるのは単体で聴くと不穏な感覚になる響きで、流れで聴くとなぜか甘美な響きに感じられる。不思議すぎる...。

 

乱雑すぎる文章を書いてしまった。考えがあまりまとまってないです。このトピックについてはいろんな考えが浮かんでくる。とりあえず、酔おうぜ!!ってことで。