芸術とか切なさとか

退廃的なものに対して魅力を感じるのはなぜなのだろう。死とか、永遠とか、そういうものを感じ取れるものに魅力を感じる。醜いものと美しいものは一見相反するものに思えるけど、そうではなくて、日常生活においては忌避すべきものが芸術においては美しいものとして感知されるものになることがある。五感のうち視覚と聴覚ではそれが顕著に現れると感じていて、逆に味覚、嗅覚、触覚はそういうことはほぼないと思う。

視覚と聴覚は離れている対象に対して感じることができる器官だけど、それ以外は直接に対象に触れたり近づいたりして初めて感じることができるものだから、忌避すべきものを感じた時にはすでにかなり近づいていて危険性が高いのだと思う。だから聴覚や視覚による忌避すべきものに触れた感覚と比べてどぎつい感覚なんだと思う。ただ、シュールストレミングとか、タイヤの形したゴムみたいな味のグミ流行ったけど、そういうのを面白がる感覚があるよね。まぁ芸術として楽しんでいる感じではまずない。芸術として楽しむってどういうことなんだろう。

映画とか小説で悲しくなったりしんどくなったりするけど、あれは本当の悲しさやしんどさではないと思っている。本当に悲しい出来事はできるだけ出会いたくないし、見たくない。だけど、物語に関しては個人的にはしんどくなるために観たり読んだりしてる節がある。でも友人の辛い話を同じような感覚で聞いたりすることは決してない。みんなそれぞれ言葉の捉える範囲が異なると齟齬が生じると思うので、一旦フィクションで感じる悲しい感覚を「切なさ」、現実の出来事で感じるそれを単に「悲しさ」という言葉を使おうと思う。

切ないって何?

 


しんどいときに逆にしんどいものに触れたくなるときってある。例えば失恋したときに失恋ソングを聴くみたいな。この理由としては一つ、悲しい気持ちをどこか他人事として捉えることができるからなのかなと思っている。悲しさに酔うっていうか。悲しさを切なさに変換する作業なのだと思う。それでも悲しいことには変わりないけどいくらかは紛れる。切なさと悲しさの違いの一つは酔えるかどうかということになると思う。

 


フィクションは酔える。現実の出来事は不謹慎だから酔えないのかもしれない。だけどたまに現実の出来事をフィクションと同じように消費していることがある。不謹慎だけどエモいな〜みたいな。現実のことだったとしても歴史的な事実とか、時間的な距離があるものはフィクションと同じように感じることってあると思う。フィクションかどうかってよりは、自分との精神的な、時間的な距離が問題なのかもしれない。

近いとダメ。遠いとOK。これは感覚器官の話にも通じるかもしれないですね。

 


あんま本筋とは関係ないけど、自分は理性でわかるような芸術にあんまり興味ない。そもそもわかるってなんなんだよ〜って思っている。良いものに触れたときにえも言われぬ感覚ってわかるとかそういうものではないと思う。月並みな表現しかできないけど、衝撃を受けるっていうかなんなんだこれは…っていう感覚になる。わかる芸術ってそういうのではないなあ。ただたまに理性的に良さがわかるときもあるんだけど、それはやがて自分の感覚を拡張して、次同じような要素を持ったものに触れたときに、わからずとも良いと感じることができるようになっている。わかるというのは感覚を拡張する作業だと思う。スルメ曲とかっていうけど、あれは複雑だったりして一聴して良いと気付かなかったものを何度も聴くことによってフレーズや和音の進行を覚えて良いと感じるようになっていくのだと思う。これは単体でその曲だけに感覚が拡張されたのではなくて、次同じようなものに触れたときに良いなぁって思えるように感覚が進化していると思う。

 


音楽を聴いていて胸が締め付けられる感覚が一番好きなんだけど、これは恋愛の痛みとか、そういうのに近いと思う。悲しいけどこの感じが気持ちいいみたいな。不思議だ。大体この感覚を覚えるのは単体で聴くと不穏な感覚になる響きで、流れで聴くとなぜか甘美な響きに感じられる。不思議すぎる...。

 

乱雑すぎる文章を書いてしまった。考えがあまりまとまってないです。このトピックについてはいろんな考えが浮かんでくる。とりあえず、酔おうぜ!!ってことで。